2012年 02月 01日
ボクという人間は、自他ともに認めるゆとろぎ人間だ。思春期からずっと、ゆとろぎながら、のび太テクニックで生きてきたぼくを、世の中の人間はどのような眼差しで接してきたか?それを5つのグループに分類して考えてみた。分類のポイントは、人間を「可能性でみつめる」という眼差しをどの程度実践できているかどうかというところだ。
鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス(信長)
これはもっとも怖いタイプの人間だ。ボクという人間を見つけると、有無を言わさず絡んでくるタイプ。人間を常に現状で把握したがる人間。その人間がどういう故あっての現状を生きているのか、などということは一切考慮にはいれない。キズで人間をみつめたり、その人間を人生の流れでみつめるというような情を持って接するなどということは間違ってもないタイプの人たちだ。「デュアルモード」の眼差しを持っていないし、考えは進んでいるのかもしれないが、人間性がまるで伴っていない。つまり「二輪人間」にもなれていない。とにかく人間を可能性でみつめること、ゼロの人たちだ。そんな人たち、物事をシンプルかつ素直に考える回路を持っていないから、大学三年にもなるとTOEICの点数の伸び悩みに悩む。結果、一流企業には就職がかなわない。考えることは好きなんだろうが、やはり「素直に考える」ということができていないと、人生伸び悩みといったところか?人生、素直に考えてこその価値。ヤツらの、考える回路が示唆してくれているのは、そんな教え。そんなヤツらの分類は、「キツネ」という人種になる。全国から集まるキツネの生息地は、早稲田大学の本部キャンパス。怖いナ。
鳴かぬなら 関心持たぬ ホトトギス(ラシーヌ作)
一句ひねってみた。ボクというのは、考えてこその価値の出る人間なのだということは自分でもわかっている。ということは、考えが一向に進む気配のない時期のボクに接した人たちの多くは、ボクには関心が出てこないというのも、むべなるかな。でもそれにしても、人間を可能性でみつめるということがあまりできていない人たちだな、というのは感じる。今現在の価値がなければ、関心ないという態度の人たち、要するに現世利益を求める人たちということになる。鎌倉時代に庶民の間で仏教に帰依することが流行ったのは、仏教の現世利益の思想が広まったからだ。そうなんだろう、やはりいつの時代にも現世利益を求めて生きているのが、きわめて庶民的人間たちの心象なんだろう。利が生まれる人間ならば付き合うが、そうでないならどうでもよし!まぁまさに資本主義の論理だね。資本の投下を決する基準は、利益が見込めるかどうか。それがすべて。ということは、庶民の心象は完全に資本主義に毒されているということになる。資本主義の中での弱者である庶民の心象が、もっとも資本主義的って(笑)...なんたるブラックユーモア!とボクは一人で笑える。そんなタイプの人たち、分類はまさに「パンピー」でしかない。パンピーの生息地は、全国津々浦々ってことで。
鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス(秀吉)
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス(家康)
ボクは幸せな思春期だった。さまざまな人たちがボクを可能性でみつめてくれていたからだ。その中に含まれているのが、秀吉のタイプの人たち。ボクがどんなに考えが進んでいなくても、それならそれでまぁ良しとしたうえで、どうしたらボクが考えを進めるようになってくれるか、その方法をイロイロと考えてくれる。そんな風に接してくれるのは、ひとえに人間を可能性でみつめることが、まさに実践にできている御仁たちだからなのだ。そんな人たちのあたたかいまなざしが、ボクという人間の人生を護送してくれていたんだろう。分類上は「タヌキ」と認定される、これらの人たちには感謝の念でいっぱいだ。そしてさらに優しく、ボクが考えを進めるようになるまで、必要な手は打ちつつも、基本はじっと静観して待ってくれるという、「サイクルに関係のないタヌキ」という人たちもいた。こちらは家康のタイプ。どちらも「二輪人間」になれている人たちが含まれていた。魅力的な人間かつ考えの進んでいる、まさに人間かくありたし!と思わせてくれるすばらしい人種だった。「タヌキ」の生息地は、各地にあるようだが、クラシック音楽の世界・下町.etc
鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス(松下幸之助作)
ゆとろぎ人生を歩んできたボクは、タヌキよりもさらに優しい人種がいることに気づいた。それが分類でいうと、「イヌ」なのだ。「イヌ」とは、ボクが考えを進めていなくても、それでも、持って生まれた性格のままに生きているならば、それもまた貴重な性格!という部分をみつめ、そこを通して人間関係を結んでくれるという人たちなのだ。本当に人間性というところで人をみつめているのだろう。ボクという人間が、人間性だけで生きているという片輪走行を続けていても、相乗りしてくれる。どんなに感謝しても感謝しきれないほど優しくボクをみつめてくれる人たちだった。特に男の「イヌ」はすばらしい稀少価値のある人たちで、ボクも今まで数人にしか会ったことがない。ボクに出会い、まず視覚で感じる。次に聴覚たくましく感じる。そうするとやがて嗅覚がはたらく。つまり鼻にくる。ボクに出会い、同性にたいして感じたことがない器官がはたらくようになってしまう。それがボクの価値であり、そのボクの価値に気づけた人間だけが、血統書つきの「イヌ」になれるというわけなのだ。ボクの思春期に出会った、血統書つきの「イヌ」...中学に一人、高校に一人。まぁめったには出会えない人たち。生息地は特定できず。天然記念物並みの価値あり。
というのが、世の中の人間がどの程度の可能性の眼差しで、ボク、ひいては他者をみつめることができているのか?ということについての分類結果を簡単に。まぁ想像でわかるだろうが、世の中は圧倒的に「パンピー」ぞろいのようで。他者についてさまざまな眼差しを向け、他者を通して自己形成をしていた思春期でも、きわめて「パンピー」な回路の持ち主ばかり。でもその「パンピー」はさておき、「タヌキ」たちも社会人として生きるようになると...みんな社会で生きていくうえで余裕がまったくないから、結局ボクのようなタイプに関心がなくなる?そういうことになっていくんだろうか?そこらへんはまだ不明。本当にみんな、自分のことで精いっぱい!そこから、歳を重ねるほど、世の中が懐浅くなっていってる風潮が見え隠れするようになる。みんな、心身ともにスローライフを楽しもうよ!と叫んでみたけど、なかなかネ。「タヌキ」が減ってるのかな?人間ってじつは社会生活の中で「パンピー」化するタイプっているのだろうか?だから「パンピー」の割合が増えてるような心持ちになる。ボクの勝手な想像だったらいいんだけど。まとにかく真剣に考えれば考えるほど、心という角度からの社会の未来は明るくない。だからボクは言うんだ、「エンを嗜むオトナになりたいナ」って。エンの価値に気づけば、「パンピー」だって今日からは「タヌキ」さ。
「平成狸合戦ぽんぽこ」ミッション始めッ!!
鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス(信長)
これはもっとも怖いタイプの人間だ。ボクという人間を見つけると、有無を言わさず絡んでくるタイプ。人間を常に現状で把握したがる人間。その人間がどういう故あっての現状を生きているのか、などということは一切考慮にはいれない。キズで人間をみつめたり、その人間を人生の流れでみつめるというような情を持って接するなどということは間違ってもないタイプの人たちだ。「デュアルモード」の眼差しを持っていないし、考えは進んでいるのかもしれないが、人間性がまるで伴っていない。つまり「二輪人間」にもなれていない。とにかく人間を可能性でみつめること、ゼロの人たちだ。そんな人たち、物事をシンプルかつ素直に考える回路を持っていないから、大学三年にもなるとTOEICの点数の伸び悩みに悩む。結果、一流企業には就職がかなわない。考えることは好きなんだろうが、やはり「素直に考える」ということができていないと、人生伸び悩みといったところか?人生、素直に考えてこその価値。ヤツらの、考える回路が示唆してくれているのは、そんな教え。そんなヤツらの分類は、「キツネ」という人種になる。全国から集まるキツネの生息地は、早稲田大学の本部キャンパス。怖いナ。鳴かぬなら 関心持たぬ ホトトギス(ラシーヌ作)
一句ひねってみた。ボクというのは、考えてこその価値の出る人間なのだということは自分でもわかっている。ということは、考えが一向に進む気配のない時期のボクに接した人たちの多くは、ボクには関心が出てこないというのも、むべなるかな。でもそれにしても、人間を可能性でみつめるということがあまりできていない人たちだな、というのは感じる。今現在の価値がなければ、関心ないという態度の人たち、要するに現世利益を求める人たちということになる。鎌倉時代に庶民の間で仏教に帰依することが流行ったのは、仏教の現世利益の思想が広まったからだ。そうなんだろう、やはりいつの時代にも現世利益を求めて生きているのが、きわめて庶民的人間たちの心象なんだろう。利が生まれる人間ならば付き合うが、そうでないならどうでもよし!まぁまさに資本主義の論理だね。資本の投下を決する基準は、利益が見込めるかどうか。それがすべて。ということは、庶民の心象は完全に資本主義に毒されているということになる。資本主義の中での弱者である庶民の心象が、もっとも資本主義的って(笑)...なんたるブラックユーモア!とボクは一人で笑える。そんなタイプの人たち、分類はまさに「パンピー」でしかない。パンピーの生息地は、全国津々浦々ってことで。
鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス(秀吉)
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス(家康)
ボクは幸せな思春期だった。さまざまな人たちがボクを可能性でみつめてくれていたからだ。その中に含まれているのが、秀吉のタイプの人たち。ボクがどんなに考えが進んでいなくても、それならそれでまぁ良しとしたうえで、どうしたらボクが考えを進めるようになってくれるか、その方法をイロイロと考えてくれる。そんな風に接してくれるのは、ひとえに人間を可能性でみつめることが、まさに実践にできている御仁たちだからなのだ。そんな人たちのあたたかいまなざしが、ボクという人間の人生を護送してくれていたんだろう。分類上は「タヌキ」と認定される、これらの人たちには感謝の念でいっぱいだ。そしてさらに優しく、ボクが考えを進めるようになるまで、必要な手は打ちつつも、基本はじっと静観して待ってくれるという、「サイクルに関係のないタヌキ」という人たちもいた。こちらは家康のタイプ。どちらも「二輪人間」になれている人たちが含まれていた。魅力的な人間かつ考えの進んでいる、まさに人間かくありたし!と思わせてくれるすばらしい人種だった。「タヌキ」の生息地は、各地にあるようだが、クラシック音楽の世界・下町.etc
鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス(松下幸之助作)
ゆとろぎ人生を歩んできたボクは、タヌキよりもさらに優しい人種がいることに気づいた。それが分類でいうと、「イヌ」なのだ。「イヌ」とは、ボクが考えを進めていなくても、それでも、持って生まれた性格のままに生きているならば、それもまた貴重な性格!という部分をみつめ、そこを通して人間関係を結んでくれるという人たちなのだ。本当に人間性というところで人をみつめているのだろう。ボクという人間が、人間性だけで生きているという片輪走行を続けていても、相乗りしてくれる。どんなに感謝しても感謝しきれないほど優しくボクをみつめてくれる人たちだった。特に男の「イヌ」はすばらしい稀少価値のある人たちで、ボクも今まで数人にしか会ったことがない。ボクに出会い、まず視覚で感じる。次に聴覚たくましく感じる。そうするとやがて嗅覚がはたらく。つまり鼻にくる。ボクに出会い、同性にたいして感じたことがない器官がはたらくようになってしまう。それがボクの価値であり、そのボクの価値に気づけた人間だけが、血統書つきの「イヌ」になれるというわけなのだ。ボクの思春期に出会った、血統書つきの「イヌ」...中学に一人、高校に一人。まぁめったには出会えない人たち。生息地は特定できず。天然記念物並みの価値あり。
というのが、世の中の人間がどの程度の可能性の眼差しで、ボク、ひいては他者をみつめることができているのか?ということについての分類結果を簡単に。まぁ想像でわかるだろうが、世の中は圧倒的に「パンピー」ぞろいのようで。他者についてさまざまな眼差しを向け、他者を通して自己形成をしていた思春期でも、きわめて「パンピー」な回路の持ち主ばかり。でもその「パンピー」はさておき、「タヌキ」たちも社会人として生きるようになると...みんな社会で生きていくうえで余裕がまったくないから、結局ボクのようなタイプに関心がなくなる?そういうことになっていくんだろうか?そこらへんはまだ不明。本当にみんな、自分のことで精いっぱい!そこから、歳を重ねるほど、世の中が懐浅くなっていってる風潮が見え隠れするようになる。みんな、心身ともにスローライフを楽しもうよ!と叫んでみたけど、なかなかネ。「タヌキ」が減ってるのかな?人間ってじつは社会生活の中で「パンピー」化するタイプっているのだろうか?だから「パンピー」の割合が増えてるような心持ちになる。ボクの勝手な想像だったらいいんだけど。まとにかく真剣に考えれば考えるほど、心という角度からの社会の未来は明るくない。だからボクは言うんだ、「エンを嗜むオトナになりたいナ」って。エンの価値に気づけば、「パンピー」だって今日からは「タヌキ」さ。
「平成狸合戦ぽんぽこ」ミッション始めッ!!




























アイアイ アイアイ(eye-eye)
腰にもっとも電流が走っている状態のときに立ち上がると、どんな姿勢になるか...わかりますか?見事に腰がひけた立ち方になります。四足の動物が立ち上がったときのような感じです。そうなんですよ、ブービーなんです。ボクはこれからパーマン2号、ブービーでいきます!
世の中には下に正直じゃない女がいます。典型例はコアラ顔の女なんですが、その限りじゃない場合もあるでしょう。そして、そんな下に正直じゃない女に限って、あれ(夜の営み)のやり方がいつも同じな男を選ぶ傾向にあります。そんな下に正直じゃない女...考えについてはいろいろ知りたがっています。不思議とこの点に限っては間違っていません。ただ、心にある考えを進めるとき、他人の言葉ばかりを求めていて、やすやすと考えを教えてもらおうとしているし、それに心にある考えを自分の言葉で進めていっている経験があまりないタイプの女でもあります。つまり、他力本願な女。そういう女だから、結局、本当に考えが進んでいる男の見方がわかるようになっていかないんでしょうね。いくつになっても、男の外見ばかりに気を取られていて、男を選び続けるまま。外見がちゃんとしているほうがいい男だとか、いい考えを持っている男のはずだという、誤認が直らないままに結婚に至ってしまう。そんな女、そんな女なりに考えてはいますから、結婚後に男の見方を間違ったことに気づくんです。外見ばかりちゃんとしている男は、所詮心にある考えをつねに進めようとしているような男ではない。これは同性の男だったら、容易にわかることです。それに、そういう中身が大したことないくせに外見だけはカッコつけている男は、夜の営みも自分本位ばかりで、いつも同じパターンを繰り返すだけ。工夫をすることもない。やがて、下に正直じゃない女は、上も下も満足できない結婚生活になる。この段になって、やっと自分が選んだ男は大したことのない男だとわかる。だから、男に対して口うるさくイロイロと注意するようになる。細かいことにまで注意がいき、取り締まりをするようになる。取締役にご就任。という流れでしょうね。